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朝崎郁恵 

僕にとっての日本版ムビラ。





倍音の力。

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向こうは 

抜けてる

散歩コースの一枚。
以前は屋根があった気もするけれど、今は何も蔽うものがありません。

わしだって

向こうは大分県。
豪雨の時は手前の護岸ブロックまで水位が上がりました。

芒&泡立草

今はススキとセイタカアワダチソウが混在してます。

Stevie Wonder & Jeff Beck 

音楽のカテゴリが完全に備忘録化しそうです、ハハ。



しかしふたりとも若い。
たまがる。

耶馬溪 青の洞門 <禅海秋祭り> でカヌーだぜぇ~ 

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今日は朝からせっせせっせ。向かうは、

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お隣、耶馬溪の青の洞門。うちから10分足らずです。

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水害にあったお店も見事に復帰しています。午後からお客さんで一杯でした。がんばれ~!

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こんなことしてるってことは、

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こんな風になるわけで、今日は「禅海秋祭り」のカヌー体験コーナーのお手伝い。

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キッズ軍団の順番待ち。。

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水面から見上げるとこんな感じ。良いでしょ~!

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彼等はちょっと迷惑そう。

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この子は体験した後も、

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お父さんとお母さんで待っててくれて、

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はにかみながら「ありがとう」と。こちらこそ、またね~!

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おーっ、並んでます、並んでます。

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無事任務完了。それにしても空が綺麗。

上毛町デザイン基礎講座、終了! 

デザイン基礎講座が終了しました。
最終回は、京都で上毛町をアピールするための仮想HP、パンフレット、屋外看板を作るというお題のもと、メンバーは3班に別れて作業をし、最後に各作品のコンセプトや具体的なアイデアを披露し、講師に専門的なコメントをいただいて幕を閉じました。

荻原先生(中央)
講師の先生です。デザインの深さが少しだけ分かりました。どうもありがとうございました!

上毛スタッフの皆さん
がっつり支えてくれるスタッフの皆さんです。どうもお世話になりました!

キャンペーン看板の試作デザイン
同じ班の方が作った屋外看板の試作品です。素晴らしい!

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僕も自転車で近所の「こうげの色」を探しに行きました。

red 2
この子、いつもうちの犬を可愛がってくれます。

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田舎にも色んな“赤”があります。

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今の時期、この“赤”が各庭先のポイントになります。

white&black
番外編: ヤッホー!上毛町にも年に何回かは白い世界が訪れます。

上毛町文化祭に向けて 

今月から「ビジネスブログ&SNS講座」なるものに参加しています。(1回2時間の計4回、遠方より専門の講師を招いて行われる無料の太っ腹講座!)
上毛町の町おこしの一環で(→ こうげのシゴト上毛町ブランド創造協議会 )、他にも三講座が設けられています。


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僕は「基礎デザイン講座」にも参加してますが、みなさん様々なイメージを抱いているようで(自分で作ったお米や農作物の加工品のネット販売をしたいetc)、どちらの講座もとても熱心に取り組んでいます。(中には全講座制覇という強者もいらっしゃって、吃驚!)

さて、僕はこの講座をきっかけに自分のブログを作ったわけですが、講師から「次の講座(要するに明日)までに撮った写真をアップする」という宿題が出ています。すでにネットの写真や動画はクリアしてますから、今回は実際に撮った写真の修正やトリミングに超ひさしぶりにチャレンジしました。


以下、昨晩やった上毛町にある「太極拳・楽耀会」の文化祭に向けた練習模様。
こうした町の施設が手軽に利用できるのも田舎の良いところかもしれません。
今年は音楽に合わせてアレンジした二十四式をやります。

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先生から配置を見て貰ってます。

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普段と違って真剣です。誰が?ってそりゃ言えませんよ。

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外から見るとこんな感じなんだ~。

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「ビジネスブログ&SNS講座」に参加してるメンバーもいます。

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何でもゴルフの上達のために太極拳をやっているとか。

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カワイイぞっ!

Sade 

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もし、「あなたは一年でどの位音楽を聴きますか?」というアンケートと集計があったら、僕はかなり時間をかけるグループに入ると思います。

僕がこの一年で最も聴いたのは間違いなくシャーデー。
家や車の中はもちろん、風呂の中でも犬の散歩の最中でも聴いてます。

(あ、同じ質問を他の人にもしたくなった…)

ところで、シャーデーは長いキャリアの割に寡作です。
だからもし僕のようなリスナーが他にもいたとすれば、その方も間違いなくそう多くはない曲たちを年から年中ヘビー・ローテーションさせているはずです。

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耳は目ほどものは言いません。
目はまぶたを閉ざしたり視線をずらすと簡単に外の刺激を断てますが、耳たぶにそういう芸当は難しいはずです。(指でふさぐのは反則です)

その代わり耳は(とりわけ音楽を聴かせる場合)、全身に能動性を発動させる回路と直接繋がります。
だから僕は飽きずに今日もシャーデーの<声>を聴いているんだと思います。

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ヤング@ハート 



今もう一度観たい映画の1本。
予告編観たらますます思いが強くなった。

幾つになってもやりたいことがあって、身体やらもそこそこついてきてくれるって、それだけで相当幸福なんだと思います。

「レヴィナスと愛の現象学 」 内田樹 (2)  

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第二章 非ー観想的現象学からレヴィナス自身の言葉をみます。


絶対的に「他なるもの」、それが「他者」である。それは自我と同じ度量衡をもっては計量することのできないものである。私が「あなたは」あるいは「私たちは」と言うときの集団性は、「私」の複数形ではない。私、あなた、それはある共通概念の固体化したものではない。所有も、度量衡の一致も、概念の一致も、私を他者に結びつけることはない。共通の祖国の不在、それが「他なるもの」を「異邦人」たらしめている。「異邦人」はまた自由なるものをも意味している。なぜなら、私は彼の上に権力をふるうことができないからである。彼は私が彼を意のままにしているときでさえ、ある本質的な側面において、私の把持を逃れている。
(レヴィナス『全体性と無限』)(P.191-192)



「他者」は自我の影とは無縁で、自我との間にいかなる対立関係も補完関係も成立しないとレヴィナスは言います。わたしたちが捕捉もコントロールも自己同一化もできないような「他者」。
内田樹はそうした「他者」はどのような形で自我の中で生起するのか、歩を進めます。


レヴィナスは自我の内在性の「閉鎖性」は両義的だという。完全に自閉し、完全に自律的な体制であるはずの自我のうちに、ある種の統制不能な領域が生成するのだ、と。
自我の内部に発生するが、「自我が統御できぬもの」、それは何か。


享受が穿つ内在性そのもののうちに、ある種の他律性が生じなければならない。その他律性が自己の内部での動物的な自足とは別の運命へと差し向けるのである。
(レヴィナス『全体性と無限』)


「他律性」(エテロノミー)とは何のことなのだろう。語義通り、「自我とは他なるものの支配圏」のことなのだとすれば、自我がさらなる自足を求めて、「欲望の傾斜に沿って(『全体性と無限』)」、内側へ内側へと巻き込まれてゆくその運動の中で、自我は「異質な要素からなる境位」に突き当たることになる。そのとき、「内在性の中で、内在性が超越の顕現を待望し、歓待するようなある次元が開かれる」(『全体性と無限』)とレヴィナスは書く。自我の内奥には、自我に帰属しない「超領地性」が存在するというのだ。(P.192-193)


自我の中に住まう他律性。
レヴィナスは自我の中にある「自我が統御できぬもの」が超越を喚起すると言います。

思うにその超越にもまた<両義性>が具わっているのではないでしょうか。
漆黒の闇に気配として感じる一陽の灯火と、まばゆい陽光の中に静かに佇む一陰の精。
この世界では僕たちは極-陽にも極-陰にも直接触れることはできません。ただただ彼方に措定しうるだけです。


隔離された存在者はおのれをどこかに凝集し、表象を有する必要がある。自己集中と表象は具体的には住まいあるいは「家」への住み着きとして成就する。さて、家の内在性はある超領地性によって形成されている。そして、この超領地性は、生がそれをもってわが身を養っている享受の境位のただ中に存在している。この超領地性には一つの積極的な相がある。それは親密性の優しさあるいは暖かさのうちに生成する、ということである。
(レヴィナス『全体性と無限』)


「自我の統制に服さぬ」超領地性により形成される「家」と、そこに流れる「親密性の優しさあるいは暖かさ」。

レヴィナスがいう「家」とは、すべてを自我に取り込もうと馴染みの椅子に腰掛けて定点観測をするための「家」とは異なります。
自我を固定化する装置としての「家」には「親密性の優しさあるいは暖かさのうちに生成」される超領地性はゼロといわないまでも希薄です。なぜなら、それは結局ある極を指向するようになるからです。
そうではなく、「自由な異邦人」が互いに住まう「家」にこそ「親密性の優しさあるいは暖かさ」が流動する超領地性があるのだとレヴィナスはいいたげです。レヴィナスは「女性」と「女性性」を分けて考えますが、同様なことが「家」と「家性」の間にもあてはまると僕には思えます。

「レヴィナスと愛の現象学 」 内田樹 (1) 

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やっと読了。
レヴィナス本として内田樹の書くものは読みやすいと評判ですが、僕は最近特に読むのが遅いので時間がかかりました。
でもほんの数ページ触れただけで、「これは最後まで読まないといけない」いう直感が作動しました。今も「引き込まれた~」という余韻に浸っています。(「あとがき」「文庫のためのあとがき」「解説 釈撤宗」はまだ読んでません。この後の楽しみとして残してます)


私のレヴィナス読解は、レヴィナスの文体に頭脳よりも先に身体がなじんでくるという体験であった。そして、ある種の理念は、受け入れる側の知の容量を超えることがありうるし、そのような理念を、身を張り裂くようにして受け入れる能力が人間の人間性を基礎付けているということこそ、私が「身を張り裂きつつ」受け入れようとしていた当のテキストが語っていた知見だったのである。(p.54)


第一章 他者と主体からの引用ですが、僕もこの本で同様な体験をしましたから、凄くよく分かる感じです。


「語ること」と「前言撤回すること」を一つにとりまとめることが可能だろうか。同時に存在することが可能だろうか。
(レヴィナス『存在の彼方へ』)


まだ言葉になっていないのに、更に先立って(先走って?)その前ー言葉を打ち消そうと前前ー言葉が瞬時に身体を駆け巡っていく、そうした無限運動が常態化してしまっている僕だから、このフレーズには痛く感動しました。


「他者」の抵抗力を構成するのは、その「予見不能性」である。不思議な言葉だ。「予見」するのは私である。私があることが「できない」ということが、「他者」の抵抗力の震源なのである。つまり、「他者」の超越なるものは、「他者」の側に属性としてあらかじめ具備されているのではなく、私の無能力を媒介して、はじめて顕在化するのである。私が「私はこの人を認識することも知解することもできない」という無能の覚知に至るときにはじめて「他者」は私の前にその姿を現す。
 私が「他者」を把持できるつもりでいる限り、私は「他者」を殺すことができる。しかし、私が自分の能力と権能に不安を覚えたときに、私は不意に「他者」にその優位性を致命的な仕方で脅かされているおのれを見出す。「他者」は私の全能性の翳りのうちに住まうのである(P.91)


師とは私たちが成長の過程で最初に出会う「他者」のことである。師弟関係とは何らかの定量可能な学知や技術を伝承する関係ではなく、「私の理解も共感も絶した知的境位にある」という「物語」を受け入れる、という決断のことである。言い換えれば、師事するとは、「他者」がいるという事実それ自体を学習する経験なのである。(p.25)


内田氏がレヴィナスを<師>と仰ぎ、そのレヴィナスにも<師>が存在したように、僕にも決断した<師>が存在します。そうした「他者」が学びの起点となり本当の希望に繋がるんだと思います。

「イリュージョン」 リチャード・バック  

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リチャード・バックは今年の9月に単発機を操縦中、電線に触れて墜落し大けがをしたそうです。やはりその後の経過が気になりますね。

彼は(1936-)ということだから、現在76歳です。
怪我自体はとても残念なことですが、現役の単発機乗りだったとは!
(もうひとつ驚いたのは、彼はバッハの直系の子孫らしいってこと。でも言われたらそうか~と頷いてしまいました。)

さてこの「イリュージョン」、最初に読んだとき本当に身体が軽くなりました。
身体の中の澱んで堅くなった部分までじわ~じわ~っと言葉が入り込んできて、取り除いたり破壊したりするのではなく、気がつかないようにそこを溶きほぐして小さくしてどこかへ流し去ってくれていた、そんな本でした。

以下、ぱらっとページをめくってみたところを引用してみます。
偶然のページなのに素晴らしい!!


学習は、すでに知られていることを見いだすこと。
行為は、学習の証明。
教育とは、被教育者に、君らも教育者と同じ程度のことを知っているのだと気付かせること。


君達はもちろん学習者であり実行者であり教育者であって、
いかなる種類の生や死を選ぼうとも自由だが、義務というものがあるとすれば、自分に忠実でなければならないということそれ一つだけである。


他人や、他の事情へ忠実であることは、
不可能なばかりでなく、偽物の救世主であることの証明となる。


最も単純な疑問が、
最も深い意味を持っている。
君はどこで生まれどこで育ちどこで何をしようとしているのか?
これらの答えは、君達自身と共に常に変化しているはずである。


最も学ぶべきこと、それを君は最もうまく教えることができるだろう。


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Mbira  

ムビラ2
<ムビラ>の音に遭遇してかれこれ30年になります。

それなりに今まで色んなジャンルの音楽を聴いてきましたが、僕にとってこれほど飽きのこない音というか、音楽はほとんどありません。

たとえば「ご飯が主食です」というとき、普通<お米>は飽きる飽きないの次元を越えています。無いと困るものですからね。<ムビラ>は僕にとって同じような次元に位置します。

当時のNHKーFMでは日曜の早朝に「世界の民族音楽」という番組をやっていて、可能な限り毎週エア・チェックをしていました。丁度お気に入りの楽曲やミュージシャンたちの音が軒並み耳に入ってこなくなっていた時期でした。

そんなとき、<ムビラ>がなんの前触れもなく天から舞い降りてきたのです。

こちらはその時にかかった曲ではありませんが、雰囲気はよく出ております。



ちなみに、僕がガツン&ホッコリきたのは、『仮小屋』という曲で、ペンギンカフェオーケストラもカバーしています。( ↓ このジャケットCDに収録 ↓ )

ムビラ

ここでほんのさわり部分だけ視聴できます。

http://wmg.jp/classic/nonesuchexplorer/disc/4108060379.html

(う~ん、これだけだと佳境に入ったトランスおじさん?とムビラのセッションが聴けません。惜しい~!)

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