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「レヴィナスと愛の現象学 」 内田樹 (1) 

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やっと読了。
レヴィナス本として内田樹の書くものは読みやすいと評判ですが、僕は最近特に読むのが遅いので時間がかかりました。
でもほんの数ページ触れただけで、「これは最後まで読まないといけない」いう直感が作動しました。今も「引き込まれた~」という余韻に浸っています。(「あとがき」「文庫のためのあとがき」「解説 釈撤宗」はまだ読んでません。この後の楽しみとして残してます)


私のレヴィナス読解は、レヴィナスの文体に頭脳よりも先に身体がなじんでくるという体験であった。そして、ある種の理念は、受け入れる側の知の容量を超えることがありうるし、そのような理念を、身を張り裂くようにして受け入れる能力が人間の人間性を基礎付けているということこそ、私が「身を張り裂きつつ」受け入れようとしていた当のテキストが語っていた知見だったのである。(p.54)


第一章 他者と主体からの引用ですが、僕もこの本で同様な体験をしましたから、凄くよく分かる感じです。


「語ること」と「前言撤回すること」を一つにとりまとめることが可能だろうか。同時に存在することが可能だろうか。
(レヴィナス『存在の彼方へ』)


まだ言葉になっていないのに、更に先立って(先走って?)その前ー言葉を打ち消そうと前前ー言葉が瞬時に身体を駆け巡っていく、そうした無限運動が常態化してしまっている僕だから、このフレーズには痛く感動しました。


「他者」の抵抗力を構成するのは、その「予見不能性」である。不思議な言葉だ。「予見」するのは私である。私があることが「できない」ということが、「他者」の抵抗力の震源なのである。つまり、「他者」の超越なるものは、「他者」の側に属性としてあらかじめ具備されているのではなく、私の無能力を媒介して、はじめて顕在化するのである。私が「私はこの人を認識することも知解することもできない」という無能の覚知に至るときにはじめて「他者」は私の前にその姿を現す。
 私が「他者」を把持できるつもりでいる限り、私は「他者」を殺すことができる。しかし、私が自分の能力と権能に不安を覚えたときに、私は不意に「他者」にその優位性を致命的な仕方で脅かされているおのれを見出す。「他者」は私の全能性の翳りのうちに住まうのである(P.91)


師とは私たちが成長の過程で最初に出会う「他者」のことである。師弟関係とは何らかの定量可能な学知や技術を伝承する関係ではなく、「私の理解も共感も絶した知的境位にある」という「物語」を受け入れる、という決断のことである。言い換えれば、師事するとは、「他者」がいるという事実それ自体を学習する経験なのである。(p.25)


内田氏がレヴィナスを<師>と仰ぎ、そのレヴィナスにも<師>が存在したように、僕にも決断した<師>が存在します。そうした「他者」が学びの起点となり本当の希望に繋がるんだと思います。
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