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「レヴィナスと愛の現象学 」 内田樹 (2)  

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第二章 非ー観想的現象学からレヴィナス自身の言葉をみます。


絶対的に「他なるもの」、それが「他者」である。それは自我と同じ度量衡をもっては計量することのできないものである。私が「あなたは」あるいは「私たちは」と言うときの集団性は、「私」の複数形ではない。私、あなた、それはある共通概念の固体化したものではない。所有も、度量衡の一致も、概念の一致も、私を他者に結びつけることはない。共通の祖国の不在、それが「他なるもの」を「異邦人」たらしめている。「異邦人」はまた自由なるものをも意味している。なぜなら、私は彼の上に権力をふるうことができないからである。彼は私が彼を意のままにしているときでさえ、ある本質的な側面において、私の把持を逃れている。
(レヴィナス『全体性と無限』)(P.191-192)



「他者」は自我の影とは無縁で、自我との間にいかなる対立関係も補完関係も成立しないとレヴィナスは言います。わたしたちが捕捉もコントロールも自己同一化もできないような「他者」。
内田樹はそうした「他者」はどのような形で自我の中で生起するのか、歩を進めます。


レヴィナスは自我の内在性の「閉鎖性」は両義的だという。完全に自閉し、完全に自律的な体制であるはずの自我のうちに、ある種の統制不能な領域が生成するのだ、と。
自我の内部に発生するが、「自我が統御できぬもの」、それは何か。


享受が穿つ内在性そのもののうちに、ある種の他律性が生じなければならない。その他律性が自己の内部での動物的な自足とは別の運命へと差し向けるのである。
(レヴィナス『全体性と無限』)


「他律性」(エテロノミー)とは何のことなのだろう。語義通り、「自我とは他なるものの支配圏」のことなのだとすれば、自我がさらなる自足を求めて、「欲望の傾斜に沿って(『全体性と無限』)」、内側へ内側へと巻き込まれてゆくその運動の中で、自我は「異質な要素からなる境位」に突き当たることになる。そのとき、「内在性の中で、内在性が超越の顕現を待望し、歓待するようなある次元が開かれる」(『全体性と無限』)とレヴィナスは書く。自我の内奥には、自我に帰属しない「超領地性」が存在するというのだ。(P.192-193)


自我の中に住まう他律性。
レヴィナスは自我の中にある「自我が統御できぬもの」が超越を喚起すると言います。

思うにその超越にもまた<両義性>が具わっているのではないでしょうか。
漆黒の闇に気配として感じる一陽の灯火と、まばゆい陽光の中に静かに佇む一陰の精。
この世界では僕たちは極-陽にも極-陰にも直接触れることはできません。ただただ彼方に措定しうるだけです。


隔離された存在者はおのれをどこかに凝集し、表象を有する必要がある。自己集中と表象は具体的には住まいあるいは「家」への住み着きとして成就する。さて、家の内在性はある超領地性によって形成されている。そして、この超領地性は、生がそれをもってわが身を養っている享受の境位のただ中に存在している。この超領地性には一つの積極的な相がある。それは親密性の優しさあるいは暖かさのうちに生成する、ということである。
(レヴィナス『全体性と無限』)


「自我の統制に服さぬ」超領地性により形成される「家」と、そこに流れる「親密性の優しさあるいは暖かさ」。

レヴィナスがいう「家」とは、すべてを自我に取り込もうと馴染みの椅子に腰掛けて定点観測をするための「家」とは異なります。
自我を固定化する装置としての「家」には「親密性の優しさあるいは暖かさのうちに生成」される超領地性はゼロといわないまでも希薄です。なぜなら、それは結局ある極を指向するようになるからです。
そうではなく、「自由な異邦人」が互いに住まう「家」にこそ「親密性の優しさあるいは暖かさ」が流動する超領地性があるのだとレヴィナスはいいたげです。レヴィナスは「女性」と「女性性」を分けて考えますが、同様なことが「家」と「家性」の間にもあてはまると僕には思えます。
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